GLENN GOULD
GATHERING
Curated by
RYUICHI SAKAMOTO
グールドのこと
坂本龍一
ぼくがまだ世田谷に住んでいた小学生の頃、隣には二宮さんという学者一家の家がありました。ぼくはなぜかその家によく遊びに行き、お住まいの仏文学者の二宮敬さんに対して、グレン・グールドがいかにすごいピアニストであるかなんていう話をした記憶があります。小学生が生意気にもまるで二宮先生に教え諭すような感じで、グールドがいかに普通のピアニストとちがって、 バッハの曲の作曲意図などを解釈し、構造を浮かびあがらせているんだ!と熱く語っていました。それほどグールドに夢中だったのでしょう。

そもそもグールドを知ったきっかけは、家になぜか有名な『ゴルトベルク変奏曲(BWV 988)』- J.S. バッハ のレコードがあり、後年、ビートルズに夢中になったように、グールドにいきなり夢中になったような感じです。 ぼくは夢中になるととことん真似をしたくなる人間なので、すぐにピアノの弾き方も猫背になり、指に顔を近づけてうなりながら弾くようになった。ピアノの先生にはすごい剣幕で「背中を伸ばしなさい坂本くん!」と叩かれました。
当時、グールドは日本でもすでに有名でしたが、イメージ的にはロックにおけるパンクのような、普通のクラシック音楽の愛好家には「あんなのは演奏とは言えない」と反発するむきもあったようです。なので、ピアノの先生にグールドの真似をしているなどと言うと、さらに怒られそうな気がして言えませんでした。 そう、初めてパンク精神的なものを感じたのは小学生のときに接したグールドの演奏だったのかもしれません。ちゃぶ台をひっくり返したかのような乱暴な魅力があった。その後にローリング・ストーンズにやはり同じような魅力を感じたんですが。
また、当時は情報が少なくて、レコードのジャケットの写真を穴が開くほど見つめ、ライナーノーツも熟読しました。ライナーノーツに「グールドの椅子は演奏中にぎしぎし音を立てる」などと書いてあると、さっそく自分でも演奏中に椅子がぎしぎし鳴るような動きを試してみたり。
ぼくのピアノ演奏はいまでも猫背気味で、グールドの影響が残っています。ただ腰にわるいので、最近はなるべく背中をまっすぐに伸ばすように気をつけてはいますが……。
また、ああいう猫背での演奏は、演奏的にはまず大きな音が出にくくなる。背筋をまっすぐにして上から腕を伸ばしているほうがバン!と大きい音を鳴らしやすくなります。猫背で弾くと、演奏中ずっと肩から腕まで力が入っている状態で、しかも肩をすくめているような形。肩は凝るし腰も痛くなる。その代わり指先を近くからじっと見ているので、指と脳が直結したような感覚になるのでしょう。逆に姿勢をよくして目と指の距離が離れると、そのぶん、自分の演奏も客観的に見られて指を道具的に使えるというのかな、そういう感覚になる。どちらがよいとは言えませんが、明らかに演奏に違いは出ると思います。

今年、2017年はカナダ建国150周年とグレン・グールド生誕85周年という年だそうです。それを記念して、トロントのグレン・グールド・ファウンデーションから日本でグールドを祝うイベントをやってもらえないかというお誘いをもらいました。ぼくは以前、グレン・グールドのコンピレーションCD(※)を選曲したということもあって依頼されたのでしょう。また、2007年に映画『シルク』の音楽を作ったときに、カナダにあるグレン・グールド・スタジオでレコーディングもしました。近くにはグールドがベンチに座っている銅像があり、ぼくもそこに座ってグールドの像と記念撮影もしています(笑)。

このように、小学生のときからグールドが好きで、ずっと彼の演奏を聴き続けています。影響もずいぶん受けました。ここで恩返しをしたいという思いがあります。

それで、どのようなイベントにしようかと考えたとき、グールドに関してはすぐれた録音はもとより、秀逸なドキュメンタリー映画や研究書が世界中にあり、これまでにずいぶん語られ研究された音楽家なので、今日あらためて新機軸のグールドの紹介というのは難しい。もしぼくがやれるとしたら、グールドの演奏や音楽に対して別の面から光を当てて魅力を伝えることではないだろうかと考えました。いうなればグールドの音楽をディコンストラクション(脱構築)する、あるいはリモデル、リワークということをする。これはいわばリミックス的なものですが、ミックスを変えるわけではないので、最近ではリモデル、リワークとぼくは呼ぶことが多い。
いままでにないグールドの紹介をする。とても軽い表現をするなら「グールドで遊んじゃおう」というものです。 そこで、今回、知り合いのアーティストに声をかけて、グレン・グールドをリモデル/リワークすることにしました。

声をかけたのはまず、アルヴァ・ノトことカールステン・ニコライ(ドイツ)とクリスチャン・フェネス(オーストリア)。このふたりの音楽家は、ぼくと長年に渡ってコラボレーションを行なっている旧知の仲です。
彼らにはまず「グールドは好きか?」と問いかけました。ふたりともグールドはもちろん知っているし、大好きだとのこと。いまコンテンポラリーな音楽やアートをやっているアーティストがグールドを知らないはずはないのですが、それでも、ぼくが予想した以上にふたりともグールドへの敬愛があった。
そしてもうひとりのフランチェスコ・トリスターノは、これまで会ったことはありませんが、その作品には以前から興味を持っていました。中でもとくに、バッハが若いときにブクステフーデという当時の有名な音楽家に会うために400キロの道のりを歩いたというエピソードを元にした『Long Walk』(2012)というアルバムがおもしろかった。単純にうまいクラシックのピアニストというのではなく、とてもユニークな視点で音楽をとらえなおしている。デトロイト・テクノのアーティストと共演したりもしていて、クラシック界におもしろい人が出てきたとずっと思っていた存在。そんな彼は昨年、ぼくの『戦場のメリークリスマス』をリモデル/リワークして発表しています。ふつうのクラシックのピアニストにグールドをリモデル/リワークしてくれと言っても通じないだろうけど、彼だったらきっとおもしろがってくれるのではないかとオファーしたところ、案の定、ぜひやりたいという返事をくれました。


彼をはじめみんながどういうふうにグールドをリモデル/リワークするか非常に楽しみです。どうリモデル/リワークするかは、各アーティストの解釈で自由にやればいいし、四者四様になるでしょう。全体像が見えるのはきっとリハーサルで揃って音を出してみたときかな。とても楽しみにしています。

草月ホールではこのリモデル/リワークのコンサートを、12月15日から17日までの3日間で計5回行ないます。毎回、つづれ織りや連歌のように4人のアーティストがそれぞれ順番にフィーチュアされてリモデル/リワークを披露し、それを他の3人がバックで支えるという形になるでしょう。
ぼくの場合は、グールドの代名詞でもあるバッハの曲、そして自分の曲も少し弾く形になると思います。グールドはカナダ人で、彼自身がプロデュースしたドキュメンタリー映画に『北の理念』という作品があります。「北」の寒さや雪原の白い光景がカナダ人であるグールドの心象風景としていつもあったことがそこで描かれています。ぼくはその『北の理念』という視点でグールドをリモデル/リワークしてみたいと思っています。そのパーツとして自分の音楽を使ってみたりもする。それはぼくの好きなアンドレイ・タルコフスキーの映画に繋がる風景かもしれません。

また、12月13日から17日の期間中には草月会館エントランスでぼくのサウンド・インスタレーションも展示されます。これは草月会館の1Fにあるイサム・ノグチによる石の彫刻作品を音具(楽器ではない音が出る道具)として利用した音楽になります。その彫刻はいい音がするんです(笑)。

さらに、15日から17日の3日間はロビーでカナダのアーティスト、Loscil(ロスシル)のライブ・パフォーマンスも行われます。せっかくカナダ150周年のお祝いでもあるので、カナダ人のアーティストにも参加してもらいたかった。そこで親しい音楽家/12kオーナーのテイラー・デュプリーにLoscilを紹介してもらいました。とても上質なアンビエント音楽を作っているアーティストです。

さらに、3日間のトークセッションもあります。出演するのは、ぼくがグールドのコンピレーションCDを選曲したときにお世話になった音楽評論家でグールド研究の第一人者の宮澤淳一さん(15日)、グールド好きのサカナクションの山口一郎さんとサウンド&レコーディング・マガジンの編集人の國崎晋さんとぼくの鼎談(16日)、宮澤さんと浅田彰さんの対談(17日)というもの。ぼくが登壇しない日も楽しみです。宮澤さんはグールドに本当に詳しい専門家なので、客席のはじっこに座って拝聴するつもりです。

映画の上映もあります。グールドは、日本映画『砂の女』をとても愛していたそうです。その監督は草月流家元の勅使河原宏さんなので、まさに草月ホールとゆかりが深い。
本当はもうひとつ展示したかったものがあります。それは夏目漱石の『草枕』の英語版の本。グールドは『草枕』を愛読し、カナダで放送されたラジオ番組の中で彼自身が一節を朗読している。それは試聴できるようにするつもりですが、グールドはどうも『草枕』のラジオ・ドラマかオペラを作りたかったようです。本にはところどころ赤と青のペンで線が引かれており、グールドを理解するためにも貴重な資料だと思うのですが、彼の没後に記念品の展示が世界中を巡回する内に紛失してしまった。日本との縁という意味でも、現存すれば今回ぜひ展示したかったのですが、残念です。

こうしてイベントの内容を考えていくうちに、あらためて思ったことがあります。グレン・グールドが、演奏家として原曲を大胆に解釈して聴衆に衝撃を与えたというのは、それこそ一種のリモデル/リワークであったとも言えるのではないでしょうか。
グールドは作曲家の意図を超えて、作家自身も気がついていなかったメロディや構造を引き出した演奏家だったのではないか。作曲家の意図通りに弾くべきだという演奏家ももちろんいます。どちらが正しくてどちらが間違っているということはありません。
ただ、ぼくは演奏家であると同時に作曲家でもある。作曲家としては、ぼくの意図を超えて曲の魅力を表現してくれるような演奏だとうれしい。自分が庭師だとして、庭を設計したときに、自分の意図を超えて思いもよらなかった美しい花が咲いて庭がより映えるとうれしいというような感情でしょうか。
あくまで想像ですが、バッハがもしグールドの演奏を聴いたら「なかなかやるじゃないか、そうきたか」と微笑んだのではないかと思います。なので、ぼくも、グレン・グールドが聴いたらにっこりしてくれるようなリモデル/リワーク、そしてグレン・グールド・ギャザリングのキュレーションができればと思っています。単なるグールド礼賛ではなく、新たなグールドの魅力を引き出す催しにしたいという思いです。どうぞご期待ください。

構成:吉村栄一

*『グレン・グールド 坂本龍一セレクション A journey to the polar north』(2008)、
『グレン・グールド 坂本龍一セレクション バッハ編 The Art of J.S. Bach』(2009)