2017年はグレン・グールドの生誕85周年にあたるが、グールドは50才で亡くなっているので、没後35周年にもあたることになる。グールドという、不世出のピアニスト、アーティスト、思想家の存在は、もはや時代や世代を超えた普遍的な影響をもたらしていることは誰の目にも疑いようがないが、その具体的な影響力や位置付けは、昨今の世界情勢を鑑みるなら、20世紀中での認識と徐々に異なってきていることも確かであり、今回の2017年におけるイベントは、100周年を迎える2032年に向けての文化史的な文脈の中で、グールドを再認識・意識化する上での中間点として非常に良い機会といえるかもしれない。
グレン・グールド・ファウンデーションから、このイベントの東京での企画を委嘱されたのが、坂本龍一であったことも大きな意義があるといえるだろう。なぜなら、グールドからちょうど20年後に生まれた坂本も、世界的に表現の場を持つ、この時代が産み出した唯一無二の個性を持ったピアニスト、作曲家、思想家であり、また、電子音楽や音響テクノロジーに対しての類稀なセンスを持ち得ているアーティストだからである。グールドが、レコード録音だけでなく、ラジオ番組やTV番組の放送メディアに、特別な関係と興味を持っていたように、坂本は、放送をはじめとするあらゆるマスメディアだけでなく、メディアテクノロジーによる表現、そして特に映画音楽に大きな叡智を示してきた。
まさしく映画は21世紀に入って、それまでの映画史とは異なるフェイズであるVRや高解像度電子テクノロジー環境との関わりを強く見せ始め、われわれはそうした新たな知覚やテクノロジーの下で、地球環境全体に接近しようともしてきている。坂本の最新アルバム『async』(2017)では、映画監督アンドレイ・タルコフスキーの映画音楽に、大いなる接近を試み
ている一面が見受けられるが、タルコフスキーは実はグールドと完全に同世代の1932生まれのアーティストなのだ。グールドとタルコフスキーを比較するなら、お互いが一見非なる世界にいるような存在にも見えるが、グールド/タルコフスキー/坂本を繋ぐ線に想像を巡らすなら、ドイツバロックの音楽家J・S・バッハへの親和性という点で、彼らはきわめて近い関係となる。
グールドが亡くなった1982年は、世界的なポストモダンの最中であり、また世界がデジタル化へ傾倒する始まりでもあり、グールドの思想や方法論は、それらを先取りする存在、アートの具現者として浮上していたはずである。そこでのバッハといえば、まずホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ—あるいは不思議の環』(1979)に代表される思潮との近親関係が思い起こされた。それから35年目のグールドは、はたしてどのように映るのか。当時では予想もできなかった、(表面的には)より過酷になった人間社会や地球環境において、同じカナダ、トロントをベースにしていたM・マクルーハンの再評価もあるが、北の思想家としての側面、音響世界としての地球といった、グールドの別の相貌が強調され、また一つ異なった記憶としてわれわれの前にもたらされる可能性を、坂本と数々のゲストの示すメルクマークによって今回たどることができるかもしれない。
さらに、このイベントのために、新しい資料が数多く展示・公開されるが、特筆しておきたいのは、カナダ政府、およびグレン・グールド・ファウンデーションの特別協力によって、生前のグールドのレコーディングや日常の現場に関わってきた何人か関係者の貴重な証言を、新たにオリジナル映像資料としてドキュメント出来たことを、ここに記しておきたい。